次世代のモノ作りに挑戦 第3回
株式会社三恵クレア 代表取締役 五十嵐 則保氏

東日本大震災から6年。被災した東北地方の縫製工場は少なくありませんが、東京電力福島第一原発から30km圏内の南相馬市にある三恵クレア(南相馬市原町区国見町)は他地区に比べていっそう困難な状況に置かれてきました。工場は震災の約半月後に再開しましたが、多くの社員が避難したままになり、震災の年の2011年末にいわき市に分工場を立ち上げるなど様々な対応策を重ねてきました。今では避難指示の大部分が解除されたものの、人口減少による深刻な人手不足に見舞われ、震災前の規模にはほど遠いのが実情と言います。こうした状況にあって16年2月に父で現会長の孝夫氏から経営を引き継いだのが、今44歳の五十嵐則保社長。厳しい現実が重くのしかかる中、復活に向けて奮闘を続けています。

JUKIのダイレクトドライブ高速本縫い自動糸切りミシン「DDL-9000B」などが活躍する三恵クレアの縫製現場

東日本大震災から6年 頑張る縫製企業

ー2011年3月11日に発生した東日本大震災から丸6年が経過します。

昨年12月にようやく常磐線の仙台~原ノ町間で直通運行が再開し、取引先の方からも、開通したから近々工場見学に行きますという声を掛けて頂けるようになりました。常磐自動車道も2015年3月に全面開通し物流拠点の仙台まで車で1時間余りで着け、クイックの商品も持ち込みやすい状態になった。しかし、震災前までは南相馬市から南にも工場がたくさんあり、物流業者がそこに荷物を下ろしたりピックアップ時に寄ってもらえましたが、今は北から来ると南相馬が"南限"になるため集荷時間が早いし、数量が少ないと嫌がられるなど、まだ物流に関してはしんどいところがありますね。

ー震災直後から人手の確保難に直面していましたが。

やはり一番厳しいのが人の問題です。南相馬市の人口は震災前に約7万1千人だったが、ほとんどの人が避難した震災直後は1万人を切っていた時期もあった。そこから時間が経って現在は約5万7千人になっているが、約1万4千人減っているという状況です。我々としては地元の高校生を採用したいんですが、全体に生徒数が少なくなる中、いかんせん卒業して地元で就職したいという子が震災前に比べると4分の1、5分の1。今春の卒業生をうちは採れませんでしたが、相馬、双葉の相双管内では地元就職希望者が200人ちょっとくらいしかいない。そのうち製造業、しかも縫製業の女子となると10人足らずしかいません。また働いてくれている社員でも介護と育児のダブルケアで辞めざるをえないという環境があります。この地域の企業はほとんどがそういう問題を抱え、人の問題がずっとついて回っている状況です。

ー昨年11月には相双地区の工場が集まった「南東北ファッショングループ」が地元でファッションショーを開催しました。

きっかけは相馬市にある福装21さんが1昨年50周年を迎え、ファッションショーを行ったところ多くのお客さんが来場し、ファッションの楽しさを伝えられたという話がありました。私たちも人が来ないと言ってばかりで、ファッションに興味を持ってもらえるようなことをしてこなかったという反省から、その種まきをしようという声が高まり、8社で南東北ファッショングループを立ち上げ、「福島相双オールファッションチャレンジ」というファッションショーを昨年11月20日、南相馬市市民文化会館で開いた。イベントではデザインコンクールを行い、南相馬市と相馬市内の中高校生や、宮城、福島県内を中心とした服飾専門学校から「夢の服」をテーマにしたデザイン画を募集、集まった約100点の中から24点をグループの工場で作製してモデルや学生さんたちがランウェーで披露しました。うちも3点を担当し、デザインした学生さんを工場に招いて製作過程を見学してもらった。若手社員が制作を引き受けましたが、ゼロからお客さんの要望を聞きながら作ることはなかなかないので、本当に良い体験だったと思います。地元の子供たちによるキッズファッションショーではポーズを決めたところを写真に撮って差し上げ好評でしたし、JUKIさんにも協力をお願いし、会場にブースを構えてもらって家庭用ミシンで作った小物を来場者にプレゼントして頂いた。ゲスト&特別審査員としてタレントの2人が参加しイベントを盛り上げたりして約900人が来場、第1回目としては成功だったと思います。今年も開催する予定で間もなく動き始めようと話し合っています。

「福島相双オールファッションチャレンジ」で専門学校の学生がデザインした服の制作を三恵クレアが担当、ファッションショーで披露

深刻な人手不足の中、復活へ奮闘続く

ー三恵クレアもこの6年間で大きく変わっているようですね。

震災前は75人でしたが、今は59人です。仮設住宅から通っている人もまだ3人います。新しい人達が入って来てくれていますが、ほとんどは震災前からいてくれた社員で、一時的に避難しても震災の年のうちに戻ってきた。現在も当時の20人余りが抜けていますが、1、2年経ってから戻ってきた人はほとんどいませんね。人の問題でいわき市に分工場を開設したが、生産や品質が安定しなかったりして昨年6月で閉じました。取引先は、人が減ってかつて主力としていた百貨店向けのボリュームゾーンに対応できなくなり,それに代わってメード・イン・ジャパンを求めるブランドやデザイナー系の取引先が新規に増えてきています。人数が減ったためレイアウトも全部変更して、裁断だけは別棟ですが、パターン研究室やサンプル作りの企画、仕上げ、検査も全部縫製ラインと一緒の建物に入れた。逆にそれによって人と物の動線がシンプルになり、情報共有、意見交換もしやすくなりました。

ー社長に就任してちょうど1年。大変な時期に引き継ぎましたが、今後の方針については。

当社にはパターン研究室やサンプルを担当する企画のスタッフを中心にブラックからカシミヤまでこなす素材対応力があり、ミシンとアイロンで形と着やすさを作って行くという服作りのセオリーを実践する中で培ってきたノウハウがあります。取引先やパタンナーさんと話しても、工場側の意見や要望を聞かせてもらうとありがたいという話をよく聞きます。だから昨年から、ただの下請け工場ではなくて、「モノが言える工場」になろうと社内で話し合っています。言われるままに、この仕様で何枚作りなさいと受けるのではなく、私たちもモノ作りをしている現場の人間として、商品をよりよくするためにはこうした方がいい、このコストでやるためにはこうしなきゃできないという提案をしていく。そのために自分たちも知識や技術をもっと高めて行く必要がある。そうしないと工場は生き残っていけない時代と思っています。国内工場としてそういうレスポンスの良さを最大限生かしていく必要があります。

ー最後に設備機器についての要望は。

ミシンも老朽化したので、1昨年、JUKIさんの本縫いミシン「9000B」を6台導入しました。デザイナー系の商品が増え、一つの商品でもレースやニット、布帛など数種類の生地を使うケースがあります。するとそれぞれで全然糸調子が違うため、今は1人で何台ものミシンを回って作業しています。だから今回発売されたデジタル本縫いミシンには期待しています。

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