わが社のモノ作り戦略 第2回
イタバシニット 代表取締役 吉田 康宏氏

宮城県気仙沼市にあるイタバシニット(本社東京、吉田康宏社長)の気仙沼工場が5月16日、東日本大震災以来休止していた操業をわずか2カ月あまりというスピードで再開させた。気仙沼市は大津波と流出した石油の引火による広域火災が発生し、被害は甚大なものとなった。同工場は火災からは免れたものの、17mに達する津波に見舞われ、建物、設備とも壊滅的な被害を受けた。しかし、吉田社長が「雇用を守り、国内生産を維持していく」と決断、従業員全員を解雇せず、取引先の支援なども受けて、復旧に向け全力を挙げてきた。周辺にはたくさんのがれきが残り、工場の修復作業が続く。こうした中、設備面ではJUKIグループの全面的な協力もあって、仮工場ながらも同市の被災した製造業では真っ先に工場を再開し、大きな注目を集めている。

雇用を守り、国内の生産を守る
2カ月のスピードで工場再開

ー気仙沼工場は津波に見舞われましたが、わずか2カ月で工場を再開しました。

ミシンをはじめ生産設備をゴールデンウィーク明けから搬入してもらい、5月13日までにすべて設置、16日から稼働したんです。電気が通じたのは5月2日、電話は13日午後で、ぎりぎり間に合った。電話が遅れていたので、パターンデータをUSBに取り込んで東京からいちいち宅配便で送らないといけなくなると心配していたけど、メールも出来るようになってクイック対応も出来ます。やっと稼働出来るようになったのも取引先のアパレルさんをはじめ、JUKIさん、資材調達が難しい中で無理をお願いした地元の建築会社や電気工事関係者、OA機器販売会社の方々のご支援があったからと感謝しています。すべて津波で流されたため、本当に鉛筆1本から揃える必要があったが、地元の皆さんが細かいものまで協力してくれた。社員も、やっと働けて良かったというのが第一声。気仙沼市内で商店や被災しなかった工場は別にして、津波による大きな被害を受けた工場で再開したのはうちが一番早いようで、地元の新聞にも取り上げられました。

ー震災後、すぐに東京から気仙沼に向かわれたそうですね。

工場は気仙沼市の中心から7~8km離れていて火災には遭わなかったが、海岸から約1kmの距離で、あとで聞くと津波の高さが17mもあったそうです。工場には130人いたのですが、3月11日の震災直後から電話がまったく通じなくなり、1、2日経っても安否確認がまったく出来ない。それで13日に私たち夫婦と営業担当の3人が東京から車で気仙沼に向かった。東北自動車道が不通でみんな行けないと思っていたが、一般道路は宇都宮を過ぎると車がほとんど走ってなかったし、福島県内の道路も応急修理をしていて、翌14日の早朝5時頃現地に着いたんです。

ー工場は壊滅的な被害でした。

道路をはさんで向かいにあった倉庫会社の大型トラックが津波の引き潮で流され、我が社の垣根を乗り越え工場の建物にぶつかって横付けされてましたよ。工場は鉄骨の柱と屋根が残っているだけで、ミシンや反物はもちろん、1、2トンもある編み機やCAMも流されてしまって、鉄骨の柱のところはがれきの山。会社の車も4台流された。社員は当日余震が少し弱まって帰宅したそうですが、残念ながら津波で1人犠牲者が出ましたし、14、5人が自宅やアパート、マンションなど住まいを流されている。私も気仙沼市内に15年間住んで愛着があり、あの惨状を見たら気仙沼市だけでなく三陸沿岸は全滅という感じで、せめて我が社は工場を再開しなければと思った。避難所に行くと涙を流す社員たちにも出会い、何が何でもやらなければと決断した。それですぐに建築業者に改修を依頼し、ミシンをJUKIさんに発注し、1人も解雇しなかったわけです。

ー気仙沼工場は編みと縫製を手掛けていたんですね。

そうです。誘致企業として40年の歴史があり、春夏物はブラウス、ジャージー、カットソー、ワンピース、秋冬物では圧縮ウールなどのジャケット、カジュアルコート、パンツなどオールアイテムテムの工場で、協力工場分を含め年間約50万着生産していた。8つの縫製ラインがあったほか、編み機も70数インチの大型機7台を含め23台、CAMも2台入れていた。編み機はパーツやアクセサリー用の編み立てで、気仙沼工場はオールアイテムの対応と、編み機で製作したパーツの組み合わせという特殊なモノ作りが出来ることを売りにしていた。単なる縫製だけではどこに行っても同じで、差別化出来ないですからね。

津波に見舞われたが、5月16日に仮操業を開始したイタバシニット気仙沼工場

17メートルの高さの津波で壊滅的な状態に(3月14日、吉田社長が撮影)

取引先から贈られた応援の寄せ書きを掲げて操業

国内と海外の生産を使い分け

ー中国の上海とインドネシアのジャカルタにも自家工場を設けていますが。

上海工場は約110人で気仙沼工場と同じような生産アイテムで、ジャカルタ工場は約150人で地元や欧米向けのスポーツウエアや婦人服を主力とし、一部東京からの発注の生産をしているだけだから、売上高で見ると圧倒的に気仙沼工場が大きな比率です。我が社は日本の国内工場で売れ筋の追求や難易度の高いもの、一方、納期的にゆとりのあるものは上海、コスト対応はジャカルタと、取引先のニーズに合わせて上手い具合に機能を使い分け出来る。気仙沼工場がなくなったら使い分けが出来なくなるから、国内工場があって海外の工場が成り立ち、海外工場だけでは成り立たないんです。

ー再開した工場は。

気仙沼工場は建物が2棟あり、震災前まで表側の建物でパターン、裁断、仕上げ、サンプル作成、もう1棟で縫製をしていた。まず社員が約2週間、連日遅くまでがれきや泥に埋まったミシン、反物などを片づけ、その後、専門業者が入って編み機やCAMなど大型機械を切断して外に運び出した。床もみんなが何度も掃除してきれいに磨き上げたそうです。それで建築業者が集めてくれた合板やベニヤで表側の建物の中を囲って仮工場として使えるようにしてもらえた。第1弾として3ラインを稼働するためにミシン44台を導入し、CAD4台、プロッター1台を設置、CAM1台が6月初めに入ります。ミシンもJUKIさんが、いの一番に揃えてくれた。再開と言っても仮工場ですから、44人でスタートすることになり、このうち中国人実習生が14人います。実習生は震災当時29人いたが、15人が帰国し、1年生9人、2年生5年が残っていた。帰国した実習生も10人が上海工場に入って働いています。

ー6月も増設するそうですね。

「とりあえず仮工場でスタートした。被災地の復興で資材が不足していますから、工場をすべて元通りにして再開するとなると半年、1年掛かっても出来ないかも知れないでしょう。だから建築業者が何とか集めてくれた資材で仮工場を造った。そうやってまず第1歩を踏み出すと社員の3分の1、4分の1でも雇用が出来る。ところが再開してみるとスペースがあることが分かったので、再開と同時にもう2ライン増設するため、その場でJUKI販売さんに追加のミシンを43台発注したんです。6月には仕上げの設備も設け、また25人を戻す予定です。

ーこれからの復旧計画は。

土地使用の線引きが決まり、とりあえず我が社は現在の敷地で建物の改修が可能になりました。現在、以前の縫製棟を修築しており、8月には完成すると、今の縫製ラインを移し本格操業が出来る体制になる。それによって復帰を希望する社員のほとんどを戻せることになり、100人体制になります。表側の建物も修復します。国内は縫製メーカーが縮小・減少してきていたが、この震災でますます減ってくるし、中国人実習生も帰国した。だから残っている工場は貴重な存在になるはずです。今回の震災では取引先の方々に本当にご支援頂きました。継続して発注して頂けていますし、津波で流されたイタリア製生地をすぐに再度イタリアに手配してくれたところもあります。そういうご支援に最優先で恩返ししようと頑張っています。

仕事が出来る喜び
気仙沼事業所部長 今泉 茂喜氏

地震の後、全員に帰宅指示を出し工場に残ったのは私1人でしたが、津波がまさかここまで来るとは想像もしませんでした。しかし警戒放送が繰り返されるので高台に避難すると津波が押し寄せ、とくに第2波の大きさには声も出ず、車や工場が流されるの呆然と見ていました。津波が引いた4時半頃に車で会社の近くまで行き、歩いて中に入ろうとしたが、ヘドロやがれきで進めず、しばらくどうすることも出来ずじっとしているだけで、幸い自宅は無事でしたので帰宅しました。
社員の安否確認は1週間ほどで半分、全員は4週間くらい掛かりました。電話が通じず、避難所を回って見つけ出すのに苦労した。吉田社長が14日朝にこちらに着き、「もう一度復興しよう」とすぐに決断された。家が流され落ち込んでいる社員も仕事を何とかして欲しいという訴えがあり、それが社長の心に届いたのでしょう。
16日から再開し、みんな仕事が出来ると喜んでいます。避難所や仮設住宅にいても仕事があると将来の希望に繋がります。3日後には再開第1便を出荷しました。生産性はまだ震災前の60%ほどですが、8月に本格的な操業を始めると、生産システムをもう一度検討したいと考えています。

気仙沼事業所部長 今泉 茂喜氏

JUKIは世界のアパレル生産を全力でサポートします

● 震災からの復興を全面支援
● 家庭用ミシンも加え4月から新スタート

このたびの東日本大震災により被害を受けられました皆様に心よりお見舞い申し上げます。
震災直後の4月1日からJUKI販売の新社長に就任しましたが、同時にJUKI販売は工業用ミシンと同時に国内販売の家庭用ミシン事業を統合し、新たなスタートを切りました。もともと2008年まで家庭用ミシン販売を手掛けていましたが、この間、JUKI家庭用ミシン株式会社に事業を移行、JUKI本社の組織改革で再び家庭用ミシンの国内営業が移ってきました。
今回の大震災に見舞われた東北は国内最大の縫製産地であり、JUKIのお客様がたくさんいらっしゃいます。このためホームページにも掲載していますが、震災の被害を受けた工業用ミシンについて特別サービスを実施し、修理可能な状態の製品は技術料を無償で修理しています。ただし交換部品代についてはご負担をお願いしています。ある会社からは津波で浸水したミシンを送って頂き、分解、部品交換などを行い確認しましたが、部品代が掛かるため修理するより買い換えた方が良いといったケースもありました。
イタバシニットさんはたまたま私が縫製能率研究所(現・縫製研究所)時代に生産管理指導を担当した会社で、ソフト開発で携わった多品種極少量短納期生産システム「QRSシステム」も導入して頂き、震災前まで稼働していたそうです。それだけに今回の津波で壊滅的な被害を受けられたとお聞きし大変心配しました。しかし、吉田社長の「雇用を守る」という姿勢に感銘し、当社としても全面的にご支援しなければならないと思いました。
イタバシニットさんは立ち作業を採用されています。そのためただミシンを納入すればいいわけではなく、すべて立ちミシンにするための部品を用意し改造、収めさせて頂き、5月16日に再開されました。未曾有の大震災ですので、全面的に縫製業界のサポートをしなければいけませんし、それが我々の仕事だと考えています。
なお、今回の大震災に際しては代理店さん・販売店さんも被災されたお客様に対して、きめ細かな修理対応をして頂き、当社としても大変感謝しております。
JUKIは日本のメーカーであり、JUKI販売はそこから発祥した会社ですので、やはり日本市場を大事にしないといけません。国内市場はそれほど大きく伸びる状況ではありませんので、市場規模に即した社内の効率化を図る改善が重要な課題の1つです。しかし、お客様がいる限りしっかりサポートする体制を取っていきます。
拡大している海外のミシン市場もいずれは日本のような多品種少量生産が求められ、JUKIとしてもそうしたノウハウの情報提供が必要になってきます。それだけにJUKI販売の国内で培った技術を温存しておくことが、JUKIグループの力になると考えています。

JUKI販売 本間 君雄社長

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